仁川オ・ジェソク「適応難しかった復帰シーズン…来年は違う」
ニュース1



※一部要約

仁川ユナイテッドのSBオ・ジェソクは"Kリーグ復学生"だ。
2010年に水原三星でプロの舞台に足を踏み入れた後、江原FCを経て2012年末に日本Jリーグのガンバ大阪に行った。

その後、FC東京と名古屋グランパスなど日本の色んなクラブでプレーした彼は今年、仁川に新たな巣を作って副主将に選任された。

だが9年ぶりに戻ってきたKリーグの舞台は容易ではなかった。
激しくて強力なKリーグのスタイルに手こずり、大小の負傷に苦しんでリーグ38試合のうち26試合に出場した。

試合でプレーするほど少しずつ本来の技量を回復させたが、オリンピック代表と代表まで過ごした彼のキャリアを考えればやや残念だった。

オ・ジェソクはニュース1とのインタビューで「野心的に始めたが振り返ると惜しい。私もKリーグ出身だが、久しぶりに戻ってきてリーグに適応しようとすると容易ではなかった」と語った。

彼は個人だけでなくチーム的にも"惜しい一年"と評価した。
毎年降格圏で苦しんでいた仁川は10ラウンドを最下位の12位で終えたが、その後は驚くべき反転を起こして8月には4位まで順位を上げた。

クラブ内外では仁川がファイナルA(1~6位)入りを越えて、2022シーズンのAFCチャンピオンズリーグまで進出できるという期待感がこみ上げた。


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だが仁川の"はばかるもののない行進"は4位で止まった。
8月29日の蔚山現代戦に2-3で敗れたのを起点に、7試合で1分け6敗に終わってファイナルB(7~12位)に落ちた。

その後、仁川は勝ち点を上手く管理、リーグ2試合を残して残留を確定させた。
だがチーム内では残留の安堵感よりファイナルAに上がれなかったことへの心残りのほうが大きかった。

オ・ジェソクは「後半期のチームが絶好調のときの雰囲気を維持するべきだった。中位圏にいるとき、どうやって勝ち点を管理すべきかについての対処が足りなかった」として、「結局は中位圏で感じるプレッシャーに耐えられなかった」と残念がった。

続けて「市民クラブの場合は過程も重要だが結果がさらに重要だ。降格圏の色彩が強かったチームのイメージが改善されたので、来年はさらに良い結果を出す」として、「来年にクラブハウスができるのでチームは今年よりさらに(良く)変わるキッカケとなるだろう」と期待した。

来年には韓国年齢で33歳になるオ・ジェソクは、いつの間にかベテランの隊列に入っている。
オ・ジェソクは手本だった先輩オ・ボムソクが最近現役から退くのを見て、引退が自分と無関係でないことを感じた。

オ・ジェソクは「私が水原でプレーしていたとき、同じポジションにボムソク兄がチームに合流して、私が江原に行くことになった。そのときボムソク兄が私に"すまない"と慰めてくれたりもした」と縁を紹介した。

続けて「私にとっては良い記憶の多い先輩なので引退するというのは惜しい。新たな前途を応援したい」と付け加えた。



大好きな先輩の引退を見たオ・ジェソクは少しずつ引退後の人生も描いている。
特に彼は最近、韓国プロサッカー連盟が行った"2021Kリーグアカデミー-進路探索過程"コースを受講し、スポーツ産業内での進路や就職についての動向を把握した。

オ・ジェソクは「参加者の中には引退した先輩もいたし、同年代の選手も多くて若い後輩もいた。選手以降の人生についてのアイディアを見つけるために参加したが、サッカー産業について様々な部分がわかって意味のある時間だった」として、「来年はもっと多くの選手が参加してほしい」と勧めた。

続けて「選手生活をしている間は、ピッチで良いパフォーマンスを見せるために絶え間なく努力する」としつつも、「遅くとも5~6年が経てば私も引退するはずなので、その後は行政分野に身を置いて現場で起きる困難を解消してあげたい」と語った。

最後にオ・ジェソクは「私は2012ロンドンオリンピックをキッカケに多くの愛と恩恵を受けた選手」として、「これまで国内外で積んできた私の経験を韓国サッカーに伝授し、私が貰った愛を再び社会に還元できるようにする」と付け加えた。


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