"先制砲・7K"大谷の漫画みたいな活躍、突発変数で崩れた
マイデイリー



※一部要約

大谷翔平のショータイムは勝利投手の要件を目前にした時点で終止符を打った。
負傷まで重なり、苦さが倍加された一戦だった。

大谷は5日、アメリカ・カリフォルニアのアナハイム・エンゼルススタジアムで行われたシカゴ・ホワイトソックスとの2021メジャーリーグのホーム試合に、先発投手兼打者として先発出場した。
メジャーリーグで特定の選手が投手・打者で同時に先発出場したのは、1903年9月8日のジャック・ダンリービーから何と118年ぶりの珍記録だった。

大谷は投手として4回2/3イニングを2被安打5四球7奪三振3失点(1自責)を記録した。
大谷の防御率は1.93になった。
また、大谷は打席で3打数1安打(1ホームラン)1打点1得点を残し、打率は.154から.188に上昇した。




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漫画のようだった大谷、162キロの剛速球に続いて大型ホームラン
デイリアン



※一部要約

これまで彼は投手と打者を交代で兼業していたが、この日はマウンド上で投げて打席にも入る漫画のような光景が繰り広げられた。

投手と打者のどちらか一つでも上手くやるのは難しいが、大谷は2つとも上手くやった。

マウンド上では最高100.6マイル(約162キロ)の剛速球を投げ、4回まで無失点で巡航した。

打席では1回1アウトの走者がいない状況で、初級156キロの直球を攻略してフェンスを越える飛距離約130メートルの大型ホームラン打に繋げた。

4.2イニング2被安打5四球7奪三振3失点(1自責)を記録して負傷で退いた大谷は、勝利投手の要件を惜しくも満たせなかった。




2021年の大谷と1982年のキム・ソンハンの"10勝-3割"
MKスポーツ



※一部要約

大谷はこの記録だけでもメジャーリーグの歴史に永遠に残ることになった。

別の見方をすれば、大谷はこの瞬間のためにメジャーリーグに進出したのかもしれない。
大谷は2017年にメジャーリーグ行きを宣言した後、30球団に公開書簡を送った。
6種の質問を投げかけて自分を最も望んでいるクラブを選んだが、その中の一つが"投手-打者としての能力をどう評価するか"だった。
換言するなら、投手-打者の兼業が可能なチームに行くという強い意志だった。

大谷は高校時代にすでに40歳までの計画を立てていたという。
メジャーリーグで投手-打者として一つの試合に出る、漫画のようなことを実現させるのが彼の最大の目標だった。
2018年10月に肘の手術を受けた後、周囲の反対にもかかわらず結局その意を成し遂げたのを見れば、意志力のすごい選手である。

"野球選手"大谷に限りない羨望と尊敬心を送り、1982年の韓国プロ野球に戻ってみる。
その年に東国大を卒業したキム・ソンハンは、ヘテ・タイガースの創立メンバーとして入団する。
全体の選手がわずか14人だったヘテは、投手がわずか4人しかおらず、ペナントレース80試合を消化するには力不足だった。

キム・ドンヨプヘテ監督は大学2年まで投手をしていたキム・ソンハンに注目し、投打兼業をさせた。
キム・ソンハンは躍動した。
10勝5敗セーブで防御率2.88、打率3割5厘13ホームラン69打点を記録した。
キム・ソンハンは二桁勝利と3割打率を1シーズンに達成した唯一無二の選手として残っている。
特に1982年5月15日には0-1でリードされていた6回裏に救援登板し、7回裏に2点ホームラン、11回裏に延長サヨナラヒットを打ち、忘れられない記録を打ち立てたりもした。

大谷とは直接比較できないが、キム・ソンハンの"10勝-3割"は今でも正当な評価が受けられないのが事実である。
プロ元年だったとしても、投打兼業の難しさや希少性、重要性が埋もれている。
さらに当時は選手の管理がまったくなかった状況で、すべて自分の能力だけで成し遂げた成果という面で驚くべき記録というに値する。

キム・ソンハンは1982年シーズンの後で肘の手術を受けたが、1985年までの4シーズンで投手と打者を兼ねていた。
通算の投手成績は15勝10敗2セーブ。
キム・ソンハンのこの記録は韓国野球史に伝説として残るのに十分である。



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