日メディア、「パク・チソン、世界トップに到達したレジェンド」
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※一部要約
ある日本メディアが韓国サッカーの象徴であるパク・チソンが、アジアサッカーを越えて世界的にもトップの隊列のレジェンドだと絶賛した。
日本の<フットボールトライブ>は27日、「"酸素タンク"というあだ名で呼ばれたパク・チソンは、世界トップに到達したアジアのレジェンド」として、韓国とアジアサッカーの誇りであるパク・チソンの影響力を認めた。
このメディアは特集記事で、パク・チソンの若い頃と日本Jリーグの京都パープルサンガで過ごしたキャリア序盤をはじめとして、オランダのPSVアイントホーフェンを通じて叩いたヨーロッパ舞台の挑戦、そして待望のマンチェスター・ユナイテッド移籍と晩年のキャリアまで、彼のサッカー人生を詳しく説明した。
それとともに「皆は彼が休まず走ることについて簡単に言うが、誰もが(そのようなプレーを)できるわけではない」と付け加えた。
25日に39回目の誕生日を迎えたパク・チソンは、英国と韓国を行き来して様々なサッカー関連の勉強と活動をしている。
最近では英国メディアが選定した、マンU史上最も優れた選手の23位になったりもした。
"狂った適応力"パク・チソンに日メディア、「大阪の大学に通って日本語を学んだ」
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※一部要約
日本メディアが、パク・チソンがプロ初年度を上手く過ごせた理由の一つに、"言語"を言及した。
日本の<フットボールトライブ>は「パク・チソンは京都で勉強する間、日本大阪のOUEL(Osaka University of Economics and Law)に通った。それで日本語を流暢に話せるようになった」として、パク・チソンが日本語を熟達することになったキッカケを明かした。
このメディアは「韓国でプロになれなかったパク・チソンは、2000年に京都パープルサンガで日本の舞台でプロデビューした。京都で過ごした初シーズン、彼はリザーブメンバーだった。だが日本J2リーグに降格した2シーズン目に能力を見せて先発を奪った」として、プロキャリア序盤のパク・チソンの状況を説明した。
続けて「パク・チソンは最初は任意的にポジションを担当していたが、次第にサイドアタッカーとして出る機会が多くなった。京都で76試合プレーし、11ゴールを決めた。そのような成功により、韓国代表にまで抜擢されることができた」と付け加えた。
京都でパク・チソンはチームの日王杯優勝を導き、代表乗船にも肯定的影響を及ぼしたりしたが、すでに明智大時代からホ・ジョンム監督の目に留まってオリンピック代表に抜擢されるなど、いち早く注目されていた。
京都で日本語などをこまめに学んで適応力を育み、その後オランダ・エールディビジやイングランド・プレミアリーグで続けて行った適応の歩みなどを見れば、やはり幼い頃から人並み外れた新芽だったと思われる。
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