[パク・コンウォンのサッカー現場] 湘南ベルマーレが見出した生存の道
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※一部要約

親企業の力強い支援を受けているチームは、親企業がいなくなったときに備えなければならない。
あまりに堅固な資金基盤を備えているため、まさか滅びるだろうかという考えを持つ人が多いが、万一そんなことが現実として差し迫れば、実に取り返しのつかない危機が作られる。
実際にKリーグでもそのような状況を経験し、親企業の体系が変わったり、やむを得ず市民クラブに切り替えたチームの事例が存在する。
日本Jリーグでも同じである。
現在J1リーグに所属する湘南ベルマーレは、親企業の破産がむしろクラブの発展を試みるキッカケとなった。
彼らはどうやって災い転じて福となすを成し遂げることができたのか?
徹底的に地域住民の中に、スポーツクラブとしてのイメージを根付かせるための秘訣があった。





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湘南ベルマーレは日本Jリーグ初期には、ベルマーレ平塚という名前で韓国ファンにも知られていたチームである。
ホン・ミョンボがこのチームを通じて生涯初の海外進出を経験し、当時は中田英寿とブラジル出身の日本帰化代表FWだったワグナー・ロペスがチームの看板スターだった。
現在はイ・ジョンヒョプが所属している。
かなり韓国ファンにも馴染みのクラブだろう。

1968年に日本国内屈指の建設企業だったフジタのサッカー部から始まったこのチームは、セミプロ時代には日本最高レベルの戦力を誇る強豪だった。
だが1999年にフジタが経営難に苦しめられ、危機が訪れた。
フジタは日本のバブル経済時代に好況を実現し、不動産業によって大金を稼いでいたが、そのバブルがなくなるとすぐに甚大な打撃を受けることになったのだ。
記録によれば1999年に減免された負債額だけで1200億円だったという。
そのような状況でベルマーレ平塚を運営するのは不可能だった。
フジタは30年間大事にして支援を惜しまなかったクラブを諦めた。

突如チームを失う危機に瀕した平塚の地域は、クラブを生かすために一つになり始めた。
今では国際面のニュースでしばしば接することができる日本外務大臣の河野太郎が、平塚市民クラブの初代会長職を引き受けて求心点に乗り出した。
このチームに身を置いていた中田が、実家チームを生かすために個人名義でメインスポンサーになるなど、助けになったりもした。
現在、クラブの責任を担っている真壁潔会長も、このときクラブを生かすために力を加えた。
平塚でスポーツ施設業をしていた真壁会長は、もともと6ヶ月ほどだけチームを助けるという考えで臨んだが、その縁がいつの間にか20年近く続いている。

真壁会長はベルマーレのホームである平塚に、どうすればクラブの根幹を築けるかを悩んだ。
地域をホームとするには様々な面で悪材料が多かった。
まずベルマーレの前オーナーだったフジタが、この地域ではない広島出身の企業だった。
本拠地を関東地方に移すため、わざわざ東京に近い平塚にしただけで、もともと郷土の企業ではなかったわけである。
さらに平塚は川崎フロンターレ、横浜Fマリノス、横浜FC、東京ヴェルディ、FC東京など周囲に争わなければならないチームがあまりに多かった。
平塚が他都市に比べて、市民の縁故意識があまり強くない点も問題だった。
平塚市民はほとんどが東京を行き来して日常生活をしている。
平塚はただ寝るだけの"ベッドタウン"だったのだ。

ベルマーレが選んだのはスポーツクラブだった。
バルセロナやドルトムントをロールモデルとして、サッカーを中心に様々な種目のスポーツを傘下チームに置き、生活体育の形式で管理するのだ。
そのために法人を二元化した。
プロサッカーチームである湘南ベルマーレをはじめとするU-15やU-18チームを営利法人に、U-12やフットサルチーム、ビーチバレーチーム、トライアスロン、サイクルなどを管理する非営利法人に分けた。
真壁会長は「平塚には25万人、近隣地域までホームタウンの活動半径を広げれば最大150万人というターゲットを保有しているので、サッカーを中心としたスポーツやイベント活動を行い、クラブの認知度をアップさせようと思った」と説明した。
湘南ベルマーレは地域内の6ヶ所を拠点として、スポーツクラブの活動を展開した。
スポーツクリニックのイベントだけで何と年間850回も行うほど、とてつもない積極性を見せた。
おかげで潜在的な消費層を確保することに成功した。
子供普及班の人員が250人から2000人以上に増えたのが良い事例である。

一つ特異な点は、そのような活動をするためには施設投資がかなりいるにもかかわらず、大金を使わなかったという点だ。
2002FIFA韓日ワールドカップ開催が好材料だった。
当時、日本の地方自治体は誘致都市になるため熱い競争をして、プロチーム所有の有無が加算点を受ける項目だったため、プロチームへの支援を惜しまなった。
湘南ベルマーレは先述の拠点6ヶ所に市からの支援を受けた。

韓国ではいくつかのチームが幼少年サッカーの底辺を広げるため、都市内に拠点を作って活動することがあるが、そのためにクラブから莫大な資金を投資するのがほとんどである。
だが湘南ベルマーレはそのような出血をしなくても拠点を確保し、それを市民にスポーツ活動の手段として提供し、クラブの収益の土台とすることに成功した。
当然、スポーツの余暇活動を楽しむことになった市民は、湘南ベルマーレの熱狂的な支持層になった。
近隣地域のチームにファン層を奪われる素地が大きかったり、"ベッドタウン"で縁故意識がぼやけていた平塚市民の絶対的な応援を受けるチームになったのだ。

プロチームを率いるチョウ・キジェ監督の在任期間を見るだけでも、その点を確認することができる。
チョウ・キジェ監督はコーチ時代まで合わせれば、計7年このチームに留まっていて、3回の昇格と2回の降格を経験した。
通常、降格すれば監督はもちろんコーチ陣まですべて入れ替わるのが一般的である。
クラブの根幹を揺るがす悪材料なので、その責任を問うのだ。





だが湘南ベルマーレはそうではなかった。
チョウ監督が地域の幼少年を優先視するべきというクラブの政策に忠実に従っているという点も反映されたが、ファンが財政的に豊かでないクラブの現実をしっかり認知いるからだ。
日常生活から湘南ベルマーレと接点の多いファンは、好成績が出ればより多くの財政を確保するために主力選手を売らなければならない状況を本当によく理解している。
そのうえ、ファンに積極的に近づくチョウ監督の態度もやはり、ファンの気持を和らげる要素として作用している。
市民は成績の有無を越えて、この地域のチーム、あるいは体育の余暇活動の求心点となっている湘南ベルマーレの価値を高く評価している。

こうしてみると、湘南ベルマーレは大金を使うことができないチームにもかかわらず、地域内でかなり見事に根ざしているチームになることができた。
湘南ベルマーレは市民とともにしようとする積極性、サッカーをはじめとするスポーツ種目を活用した市民参加を誘導し、生存の道を見出した。



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