キャプテンキム・ミヌが語る"Jリーグ200試合"
蹴球ジャーナル

※一部要約
「200試合出場自体は特別だとは思いません。ただし、苦しく困難な時間を勝ち抜いた結果なので、自分が誇らしいです」
"韓国人キャプテン"キム・ミヌは最近、日本Jリーグ通算200試合出場の記録を打ち立てた。
サガン鳥栖だけで7シーズン活躍中の彼は9日、ヴィッセル神戸との遠征試合で意義深い記録を残すと、同時にゴールまで放って祝った。
サガン鳥栖は17日、名古屋グランパスとのホーム試合の直前、キム・ミヌの200試合を祝うイベントを行った。
キム・ミンヒョクやハ・デソン、イ・スンヒら韓国人選手を含めた両チームの選手が両側に並んでいる中で、キム・ミヌは花束を受けた。
ベストアメニティスタジアムに集まった1万618人は主将キム・ミヌに惜しみない拍手を送った。
キム・ミヌは「7年間で200試合以上プレーするなんて、時間が本当に速いようだ」として、「厳しい時期を勝ち抜くのには、周囲の多くの方々の助けが大きかった。これまで積んできた経験を基に、これからも大いにチームの助けとなる」と所感を伝えた。
彦南高出身のキム・ミヌは2009年のFIFA U-20ワールドカップで3ゴールを放って韓国の8強進出を導き、名を知らしめた。
その後パク・チソンとイ・ヨンピョが活躍したエールディビジの名門PSVアイントホーフェン行きを準備したが、その過程で当時の所属チーム延世大との摩擦により除籍され、アイントホーフェン入団も失敗した。

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突如無所属選手になったキム・ミヌは、2010年にJ2のサガン鳥栖でプロ生活を始めた。
U-20ワールドカップのスターにとってJ2は狭かった。
初シーズンの24試合出場で余熱を済ませた後、翌年は28試合7ゴール5アシストでチーム史上初のJ1昇格を導いた。
サガン鳥栖の背番号10のエースは、当時の指令塔ユン・ジョンファン現蔚山現代監督と"コリアンパワー"を披露して一段階高い舞台に上った。
J1でも主戦として活躍した。
特にSBとMF、FWを行き来するマルチプレーヤーとしてチームに力を加えた。
だが代表チームでは不運だった。
ロンドンオリンピックのアジア予選では主軸選手でプレーしたが、本戦の最終メンバーからは外された。
キム・ミヌは無念な気持ちを隠してサガン鳥栖で黙々と汗を流した。
彼は周囲の人々の慰めに「これが終わりじゃない」と毅然とした姿を見せた。
努力は裏切らなかった。
所属チームで2013年にリーグ33試合出場に続いて、翌年34試合に出た彼は、シュティーリケ監督就任後にA代表に招集されてデビューゴールまで決めた。
"所属チームでよくやって代表のチャンスを得る"という普段の持論を自ら証明した。
キム・ミヌは去年もアジアカップ代表として準優勝、東アジアカップ代表として優勝した。

サガン鳥栖は今シーズンの前期リーグで15位という振るわない成績を残した。
キム・ミヌも負傷でしらばらく離脱していた。
それでもキム・ミヌが復帰してから反騰に成功し、後期リーグの最初の4試合で無敗(2勝2分け)行進中である。
兵役問題で今シーズンを最後にサガン鳥栖と離別するキム・ミヌは「有終の美のために最後まで熱心に走る」と誓った。
クラブはホーム最終戦でキム・ミヌのための盛大な告別式を準備している。
▲"200試合"キム・ミヌが挙げた忘れられない3試合
「これまで行った多くの試合の中で、2011年のJ1昇格を確定させた徳島ヴォルティス戦をまず最初に思い出します。その日は私が先制ゴールを決めて3-0で勝ちました。2つ目は翌年のJ1開幕戦のセレッソ大坂との試合です。サガン鳥栖にとって初めてのJ1の試合であり、私のプロキャリア初の1部リーグの試合でした。次は2014年の開幕戦なのですが、また相手が徳島でした。その日ゴールを決めて気持ち良くシーズンを始め、その年の全試合でプレーして攻撃ポイント(6ゴール4アシスト)を最も多く記録した開幕戦が記憶に残ってます」