「透明性の話をすれば机を叩いて興奮した」
週刊朝鮮




※一部要約

チョン・モンジュン大韓サッカー協会名誉会長は17年間FIFA副会長として働いた。
彼はFIFAの改革派として、一貫して反アベランジェ-反ブラッター路線を歩んだ。
1998年のFIFA会長選当時、改革派から多数の支持を受けていたヨハンソン欧州サッカー連盟会長を支持した。
結果はアベランジェ会長の支持を受けていたブラッター事務総長の当選。

2011年1月、彼はFIFA副会長5選に挑戦して落選し、韓国スポーツ界に衝撃を投げた。
国際スポーツの舞台から韓国を代表する人物が消えてしまったからだ。
当時、海外メディアはブラッター会長が自身の潜在的ライバルの落馬に声を潜めて笑っているという解釈をしたこともあった。

6月15日、ソウルのアサン政策研究院でチョン名誉会長に会った。
サッカーファンの関心は、彼がFIFA会長選に出るかどうかだ。
「FIFA会長選は来年2月と予想する。FIFA関係者と満遍なく会って、8月末までに出馬の有無を決めるだろう」

すでに辞意を明かしたブラッター会長について、ヨーロッパメディアからあらゆる話が漏れてくる。
なぜだろうか。

「ブラッターが辞任したくないのだ。アジアサッカー連盟とアフリカサッカー連盟が自分の辞任に反対しているという理由で、そのような話を流している。EUは辞任を促した。辞任するのが正しい」


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彼は韓国人として唯一、FIFA副会長を17年間引き受けた。
日本単独のワールドカップになるところだった2002ワールドカップを韓日共同誘致にしたのは、彼でなければ不可能だった。
一般人の関心は、彼がFIFA副会長としてFIFAの腐敗をどれだけ感知していたかという点である。

「17年間FIFAで働いて、術策が飛び交っているということを何度も感じた。
副会長兼執行委員をして、(この職責は)必ずしも名誉ではないということを感じたりした。
年に6~7回FIFA会議に参加したが、そのたびに心的葛藤を多く体験した。
知らない人たちは私が飛行機に乗ってよく遊んでいると理解していたが、実状はそうではなかった」

1994年、FIFA副会長に当選した後スイス本部で開かれた会議に参加したことがある。
そのとき目の前で繰り広げられたことを、彼はまるで昨日のことのように打ち明けた。

「アベランジェ会長が会議後にポケットから手紙を取り出すと、ヨーロッパサッカー連盟のヨハンソン会長を睨んで机を叩いていきなり怒った。"君たちは私に透明性を要求したが、どうやってそんなことができるんだ?"。アベランジェ会長はスペイン語とフランス語を混ぜながら怒っていて、通訳できないほどだった。私は初めて見る光景で、ただ見てばかりいた」

1997年12月、パリでFIFA執行委員会の会議が開かれた。
「会議中にアベランジェが私を指すと、"チョン副会長が透明性の話をしたが、何のことなのか説明しなさい"と言った。この話は、私が直前にパク・カプチョル会長が主催した世界体育記者連盟総会に参加し、FIFAがしっかりと運営されるには透明性が保障されて集団の知恵を発揮しなければならないと言ったことだ。私はFIFAを指し示したこともなかった。透明性は組織運営にはどこでも当てはまる問題じゃないのか?それでもアベランジェは、透明性を取り上げて論じた背景は何なのかと興奮した。私もアベランジェのようにFIFA総会で選出された人間なのに、彼はまるで子供や犯罪者を扱うように、机を叩いて私に大声を上げた。ブラッターも同様だった。透明性の話が出れば怒ったりした。ドラキュラが陽光や十字架やニンニクの前でまったく身動きが取れないように、歴代のFIFA会長にとって透明性はドラキュラの陽光や十字架のようなものだった」

チョン名誉会長は2011年9月、自叙伝"私の挑戦、私の情熱"を出版した。
FIFA副会長に落選したからだったのか。
彼はこの本でFIFAの腐敗文化と、ブラッターへの見解を決意して明かした。
彼はブラッターについて「どう見ても国際的な紳士ではなく、悪童のように感じられた」と記した。





アジア、ヨーロッパ、北米などの各地域を代表する執行委員は、なぜブラッター会長の明らかな不正について一言も出せなかったのか。

「ブラッターは人参と飴を両手に持っている。FIFA会長は17歳ワールドカップ、20歳ワールドカップ、女子ワールドカップ、ワールドカップなど、各種大会の権限を保有している。また、様々な地位を与えることができ、巨額のサッカー発展基金を操っている。もちろんこれを決める機構や委員会はあるが、責任者に側近を座らせていて、事実上自分がすべてやっているのだ。今回、ドイツ・ベルリンに行ってFIFAの関係者たちと会った。ある執行委員は私を食堂の隅に連れて行き"ブラッターに間違ったことがあれば一つだけ話して欲しい"と言っていた。これがまさに今のFIFA内部の実状だ」

彼は「個人的にブラッターとはどんな関係だったのか」という質問にこう答えた。
「私はブラッター会長と気楽に接しようと努力したが、彼はそうじゃなかった。常に私を警戒していた。一度も虚心坦懐に話を交わしたことがない。何か隠していることが多いという感じがした」

2002韓日ワールドカップのとき、韓国は4強に上がった。
ドイツとの4強戦はソウルサンアムワールドカップ競技場で行われた。
当時の審判3人すべてにドイツ系スイス人が配分された。
世界のメディアは会長がスイス人なのに、ドイツ系スイス審判を配分したのは公正性を阻む恐れがあると報じた。

「後で私はある執行委員から聞いた。ブラッターが直接"韓国代表チームが玄界灘を渡ってくるようにしてはならない"という話をしたと言っていた。そのときワールドカップ競技場で試合を見て感じたのは、韓国選手とドイツ選手が空中でぶつかりさえすると、韓国チームのファールを吹いた。その言葉を聞いて見たら、当時の状況が少し理解できた。事前にそれを防げなかったのは私の責任だ」

2006ドイツワールドカップのとき、韓国代表チームは初の遠征勝利を達成したが、1勝1分け1敗で16強進出に失敗した。
私たちはトーゴ、フランス、スイスと同組だったが、ブラッター会長がスイス人なので審判の判定が公正ではなかったという話が飛び交った。
さらにフランス代表監督は、記者会見でブラッター会長への不満を打ち明けたりもした。

「後でピーター・ベラパンアジアサッカー連盟事務総長から、ブラッターがした話を聞いた。"FIFA会長の私がスイスの肩を持ったと言われるが、2002年のワールドカップ当時にMJは審判をすべて買収して韓国が4強まで行った。スイスは16強しか行けなかった。その程度でどうしたというのか"ということだった。ブラッターが実際にそう信じていたからこんな話をしたのではないか。(ブラッターは)私の能力を過大評価していた」

2022カタールワールドカップは開催地選定の当時から各種疑惑が絶えなかった。
韓国は誘致の申請をしたが脱落した。
アメリカFBIは2022カタールワールドカップ開催地選定の過程を操作している。

「カタールが開催地に選ばれたのは様々な要因が作用した。私は基本的に、候補となった国はワールドカップを開催する資格があるという立場だ。2022カタールワールドカップの本質はそうではない」

彼の言葉は続いた。
「IOCは夏季オリンピックでも冬季オリンピックでも、7年前に開催地を選定するという原則を定めていて、これは一度も変わってない。ところがブラッター会長は違った。自分の思いのまま、2010年に2018年と2022年の開催地を一度に決めると宣言した。私1人だけが反対だったようなので黙っていた。ブラッター会長はしてはならない決定をし、執行委員会でこれを追認した。ここから間違いが始まったのだ」



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