[単独インタビュー上] 韓国が冷遇したキム・ジンス、誇らしく帰ってくる
スポーツ韓国




※一部要約

キム・ジンスは小学5年生のときにチョン・ポクシク監督の誘いでサッカーを始めた。
バスケット選手だった母親は激しく反対し、父親もやはり成績が良くなかった息子をスポーツの道に進めさせたくなかった。

「父親と"絶対に諦めない"という約束をしてサッカー部の合宿に入りました。最初の一週間は毎日泣きました。初めて両親と離れて生活したからでしょう。そのときたくさん泣いて、絶対にサッカー選手として成功すると誓いました。実際、当時の私の家庭の事情は厳しかったんです。あまりにも家が小さくて見窄らしく、余程のことでなければ友達が遊びに来ても家を見せたくないので外で待ってくれと言って、出て行って遊んだくらいですから」

「当時は2002韓日ワールドカップの熱い時期で、まだ覚えているのが4強に行った選手に報奨金と車が与えられたんです。それを見て、サッカー選手になればワールドカップに出てお金をたくさん稼ぐことができると思いました。なので私もサッカー選手としてお金をたくさん稼いで、家庭の事情を良くしたいと思いました。結局そのようにサッカーを始めました」

彼が進学したのは龍仁ウォンサム中学校のサッカーセンター。
そこは最高の施設を誇るが、1ヶ月100万ウォン以上の金を出してこそずっといられるところだった。

「家庭の事情が厳しかったが、どうにかして父親がお金を用意して一度も欠かさず納入してくれました。そのおかげでサッカーができました。私はないお金をかき集めて納入していたのを知っていたので、お金を出したくありませんでした。そうなると奨学生にならなければなりませんでした。奨学生になるため1人で明け方に運動して、団体練習が終わってからまた夕方に運動しました。一週間に一度外泊で出て行くとき、みんなが家に帰っても1人で残って練習しました。奨学生になってお金を出したくなったんです」


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慶煕大で新人を終える頃、キム・ジンスは切実にプロ行きを望んだ。
当時の家庭の事情はさらに悪くなっていたし、早くプロになってお金を稼ぎたかった。
だが当時はどのチームもキム・ジンスを積極的には望まなかった。
年代別代表チームを経て青少年代表まで経たが、Kリーグのどのチームもキム・ジンスに確信を持つことはできなかった。

「関心は送られていたが、積極的にドラフトに志願書を出せというKリーグチームがなかったんです。それで父親と一緒にエージェントを訪ねてお願いしました。"チームをちょっと調べて欲しい"と。それで探したチームがアルビレックス新潟でした。ところがアルビレックスも、私を招くための金額は私が思っていたのと違ったんです。オリンピック代表にもなっていたので、それよりも多く貰えると思ってたんです」

「そのときになって悟りました。Kリーグにも招かれず、Jリーグでもやっとこの程度の金額で私を招くのを見ると、自分はすごくないのだと。自負心ではなく慢心だったのでしょう。そのときはすごく泣いてサッカーを諦めたかったが、小さい頃の父親との約束を思い出し、母親が泣いていたのを覚えていたので、"それでも日本に行ってやってみよう"と考えるしなかったんです」

「厳しい日本での初シーズンを送って、2シーズン目からは"やりたいようにやろう"という考えでサッカーをしたら、むしろ上手くいきました。それでもホン・ミョンボ監督様の招集を受け、代表チームに選抜されたときはかなり驚きました。初めて招集されたときのことを思い出しますね。幼い頃から年代別代表チームのため坡州NFCにかなり行き来したが、当時は正門から練習場まで歩いて行くとき、遠くから取材陣が私を撮っていて緊張したし、その瞬間は本当に永遠のように長かった。最も緊張した瞬間です」


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ワールドカップには行けなかったが、代表と日本での活躍を認められ、キム・ジンスは去年ブンデスリーガの中位圏クラブであるホッフェンハイムに移籍することになった。
この過程もやはり容易ではなかった。

「以前は"お金"がチームを選ぶ基準でした。だが私は去年のはじめ、すでに身に余る待遇を受けて再契約をしていたので、もうお金はチームを選ぶ基準ではありませんでした。去年の6月頃、ホッフェンハイムの他にもオファーを受けたが"確実でなければ行かない"というのが私の基準だったんです。出場機会が保障されなければなりませんでした。結局ホッフェンハイムはアジア大会まで行けるように保障して、出場機会も与えられるチームなので選びました」

キム・ジンスがアルビレックス新潟を去るとき、申し訳ないという思いから奇想天外なイベントをしたことが、いまだに現地で広く知られている。

「アルビレックス側が入団2年を過ぎて私が思っていたよりもかなり認めてくれて再契約しました。それでも6ヶ月でドイツに行くことになりました。申し訳ないという思いが大きかったです。それで去る前にクラブを訪れて、職員の方々に一人ひとり挨拶しました。それでも申し訳ないという思いが消えず、クラブのSNSを通じて今ホーム球場で待っているので、来てくれたら別れの挨拶を差し上げるとファンに残しました」

「驚くべきことに、何と900人近くが私を歓送しに来られました。そんなに多く来て、ただマイクを持って挨拶だけ申し上げるのは礼儀ではないようだったので、"どれだけ時間がかかるかわからないが、ここに来られた方々全員と写真を撮ってサインを差し上げる"と言いました。実際に5時間くらいかかってすべてやりました。それでも申し訳ない気持ちが大きいです。アルビレックス新潟は本当にありがたいクラブです。誰も受け入れなかった私にチャンスの扉を導いてくれたところじゃないですか」


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