<インタビュー> 国家代表パク・チュホの波瀾万丈だった1年
聯合ニュース
※一部要約
2015年5月12日、サッカー選手パク・チュホはクラブのフェイスブックで女児を得た事実を知らせた。
それから約1年前の2014年5月8日、パク・チュホは出場したかった2014ブラジルワールドカップ代表チームの最終名簿から脱落した。
この1年間のパク・チュホのサッカー人生は、ジェットコースターのように過ぎた。
負傷したキム・ジンスの代替選手として劇的にワールドカップ代表チームに合流したが、1試合もプレーできなかった。
2014仁川アジア大会を控えて、イ・グァンジョン監督の選択を受けた。
チームの"長兄"の役割をしっかりと果たして金メダルを首にかけ、兵役特例の対象となった。
2015オーストラリアアジアカップでは、シュティーリケ監督の厚い信頼を受けて27年ぶりに準優勝の一助となった。
今は娘もできて、結婚を約束したガールフレンドもいる。
4週間の基礎軍事訓練を受けて"社会人"に復帰したパク・チュホと会い、充実した年を過ごした所感を聞いてみた。
サッカー韓国代表 シュティーリケ監督の東アジアカップ構想…若い力を積極的に活用
WoW!Korea
サッカー韓国代表のウリ・シュティーリケ監督が8月に開かれる東アジアカップの選手構想について計画を明らかにした。
去る18日、スペインとドイツで休暇を過ごしたシュティーリケ監督が30日、仁川国際空港を通じて入国した。その後取材陣と会ったシュティーリケ監督は「家族と充電することは良いことだ。妻と娘の誕生日を一緒に過ごしてきた」と明るい表情で述べた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150630-00000060-wow-socc
休暇を終えたシュティーリケ「韓日戦の重要性をよく分かっている」
エクスポーツニュース
※一部要約
─東アジアカップで就任後初の韓日戦を行うが。
韓日戦の重要性をよく分かっている。
ヨーロッパでも国境を接している国同士のライバル意識がある。
韓日戦は重要だが中国、北韓との試合も劣らず重要だ。
─東アジアカップの選抜原則は何か。
継続的に関心のあった選手たちはずっと招集してきた。
今回の招集ではできるだけ若い選手を中心にチームを構成するつもりだ。
─日本の指令塔ハリルホジッチ監督について知っているか。
指導者生活を長くしている監督なのでよく知っている。
だが試合は監督がプレーするのではない。
日本も韓国のようにヨーロッパ派が多く、チームを新たに構成しなければならない。
一方、中国と北韓はベストメンバーがそのまま出場しそうだ。
─クラシックでパク・チュヨンの活躍が良いのだが、抜擢の可能性は。
FWは威嚇的なシーンを多く作らなければならない。
意欲的な面は良いが、得点力をさらに高めなければならない。
さっきも言ったように、今回の代表チームは若い選手を中心に選ぶ。
"世界16強"女子サッカーの見窄らしい自画像
蹴球ジャーナル
※一部要約
韓国女子サッカーが史上初めてワールドカップ16強に進出した18日。
女子サッカー連盟はHPで公示を一つ出した。
女子サッカーファンはもちろん、カナダにいた代表チーム選手も呆れ返ったそれは、WKリーグの試合の変更が要点だった。
連盟は29日、ソウル市庁-水原FMCの試合を筆頭に、ソウル市庁のホーム6試合の場所が蚕室オリンピック補助競技場から孝昌運動場に変わると発表した。
キックオフ時間はさらに大きな問題だった。
午後7時に予定されていた試合が午後4時に前倒しになった。
最近は夏の暑さの真っ只中である。
真昼の炎天が照りつける時間にプレーすることは容易ではない。
しかも孝昌運動場は人工芝である。
天然芝より火傷や怪我の危険が大きい。
2015カナダ女子ワールドカップもやはり、最高級の人工芝で試合をしたが論難となった。
連盟の関係者は「3日の実態調査の結果、蚕室補助競技場のスタンド、付帯設備が基準をまったく満たすことができなかったので早目に通知した」として、「酷暑期なら時間変更があり得る」と付け加えた。
"48歳のワールドカップ挑戦"三浦の夢が美しい理由
韓国スポーツ経済
※要旨
日本看板FW出身の三浦知良は1967年生まれだ。
ファン・ソンホン浦項スティーラース監督より1歳上で、コ・ジョンウンSPOTVサッカー解説委員より1歳下である。
三浦は監督やサッカー解説委員として活動しなければならない年齢で、相変わらずサッカーシューズを履いている。
三浦は28日に行われたJ2リーグの水戸との遠征試合で、後半49分に決勝ゴールを炸裂させ、チームの1-0勝利を導いた。
彼は自身のJ2リーグ最高齢得点記録を48歳4ヶ月2日に伸ばした。
知天命(50歳)を目前にしている三浦は、ワールドカップ出場という夢を諦めることができなかった。
彼は2013年、現地メディアとのインタビューで「選手ならサッカーシューズを脱ぐ瞬間まで、代表チーム乗船を夢見なければならない」と語った。
彼は唯一ワールドカップと縁がなかった。
三浦は1993年のアメリカワールドカップアジア最終予選のとき、決勝ゴールを炸裂させて韓国に敗北をもたらしたが、イラクを越えられずに本戦挫折の苦杯をなめた。
続けて1998年のフランスワールドカップでは日本を史上初の本戦に導いたが、岡田武史監督の目から外れて済州エントリーから除外された。