50歳の三浦、31年目で終わりを知らない挑戦のアイコン
スポーツ朝鮮




※一部要約

1967年生まれの三浦知良は2017シーズンが始まった現在までプロ選手のユニフォームを着ている。
彼の現所属は日本J2の横浜FCである。
ポジションはFW。
1986年からクラブ生活をスタート、今年で31年続けている。

三浦は年齢的にプロサッカー選手の全盛期を越えて"還暦"まで経た。
だが今年1月に現所属チームの横浜FCと1年の再契約をして再び1シーズンプレーできるようになった。

三浦は今シーズンの開幕戦が行われた2月26日に50回目の誕生日を迎えた。
松本山雅とのホーム試合を終えた彼は、記者会見で取材陣が用意したバラの花束とケーキをプレゼントされた。
イタリアのサッカースター、アレッサンドロ・デル・ピエーロは自身のブログで三浦の誕生日とサッカーへの情熱に祝福のメッセージを残したりもした。
三浦は3月5日のVファーレン長崎戦でも先発出場、50歳7日でイングランド1部最高齢出場記録(50歳5日、スタンリー・マシューズ)まで飛び越えた。

三浦は去年まで10年を超えて1シーズンで5ゴール以上を上回れずにいる。
1シーズン3ゴールが最多だった。
負傷で引退の危機に追い込まれていた2014シーズンには2試合の出場で無得点を記録したりもした。
2016シーズンには20試合出場で2得点した。
だが三浦は若い後輩と相変わらずプロの舞台を走っている。
なので三浦はアジアサッカーを超えて世界が認める"挑戦"のアイコンとして通じている。

三浦が歩んできたサッカー人生は限りない挑戦の連続だった。
彼は日本を超えてアジアのサッカー選手が歩んでこなかった道を切り開いた。

高校時代の1982年に一人でブラジルサッカー留学に行った。
ブラジルでプロ選手になるためだった。
彼はサンパウロのアトレティコ・ジュベントス・クラブと幼少年契約した。
最初の成人契約は1986年にサントスとした。
その後パルメイラス、コリチーバを転々とした。
長期留学を終えて1990年に日本に戻った。


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当時ブラジルサッカーを学んで帰ってきた三浦は、人気が高くスタート呼ばれた。
実業サッカーの読売FCと契約し、1993年のJリーグスタートと同時にヴェルディ川崎でプレーした。
三浦は川崎を2年連続優勝に導いた。
そして彼は再び日本を去った。
今度はイタリアだった。
日本選手として初めての契約だった。
セリエAジェノアと契約、21試合に出場して1ゴールを決めた。

1995年に日本の実家チームに戻った彼は、1999年にクロアチアリーグのディナモ・ザグレブに再進出した。
再び失敗を味わった彼は日本にカムバック、京都パープルサンガ、ヴィッセル神戸、そして現在の横浜FCと経た。
2005年には2ヶ月間オーストラリアのシドニーFCでレンタル選手でプレーしたりもした。

若い頃の三浦は一つのチームに安住しなかった。
成功をおさめた後は未知の舞台を新たにノックした。

三浦は日本代表チーム"サムライジャパン"に貢献した功労も大きかった。
1990年から2000年まで代表でプレーして、Aマッチ89試合で55ゴールを決めた。
1998年のフランスワールドカップ本戦進出を導いた主人公も三浦だった。
当時日本代表にとって初めてのワールドカップ本戦出場だった。
だが三浦はワールドカップ本戦の舞台を踏むことができなかった。
当時の岡田武史監督が選んだ最終メンバーに入れなかった。





三浦は1993年10月にカタール・ドーハで行われたアメリカワールドカップアジア地区最終予選の韓国戦で決勝ゴールを放つこともした。
だが当時、日本はアメリカワールドカップ本戦進出戦で苦杯をなめた。
日本はイラクとの最終戦で2対2で引き分けて脱落した。

三浦は最近出演したテレビ番組で「ワールドカップ出場挫折が私を強くしてくれた。それによって今の私がいるのかもしれない」と語った。

Kリーグ最高齢出場記録は引退したGKキム・ビョンジ(45歳5ヶ月15日)が持っている。
キム・ビョンジは「三浦は本当にすごい。こんなに長く選手としてプレーできるのは彼だけのノウハウがあるからだ。選手時代にもっと長くしたくて心のなかで彼と善意の競争をしていた」と語った。



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