"韓日戦"の過去と現在、そして未来
蹴球ジャーナル


※一部要約

ときどき楽しい想像をする。
2028年のワールドカップ決勝戦。
韓国と日本が会う。
もちろん優勝は韓国が占める。
主審のホイッスルが鳴り、90分間の激戦が終わった瞬間、日本選手は韓国選手に心からの祝福の握手を差し出す。
韓国選手も日本選手の肩を叩いて慰める。

記者会見場。
韓国の監督はこう語る。
「韓国サッカーは日本がいて幸せだ。私たちはライバルである」
韓国と日本サッカーはライバルだ。
"宿敵"という殺伐とした表現も容易くあらわれる。
サッカーがどうして戦争で、選手がどうして戦士となるのか、韓日戦ほど胸躍る試合はない。

どの試合だけではない。
両国のサッカー史に絡まり混ざった汗と涙の話はどうか。
10年前の話であっても、20年前のストーリーであっても、私たちは簡単に感動し追憶する。
アジアサッカー連盟23歳以下チャンピオンシップ決勝戦で、韓国と日本は再び会った。

いつものように、今回の決勝戦も重ね重ねに積まれたわだかまりの舞台だった。
オリンピックチーム同士だけを見ても、日本はロンドンオリンピック3~4位戦で韓国に敗れた。
仁川アジア大会8強戦でも跪いた。
手倉森監督は「どうせ最後は韓国だと思っていた」と語った。
韓国と日本はアジアの頂点に立っても、互いを倒してこそ真のアジア最高だと自負できる熱い歴史を有しているのだ。


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韓日戦の背景はもちろん韓日両国の歴史である。
日帝強制占領期間に最高のサッカーチームだった朝鮮サッカーチームが1935年に全日本サッカー選手権大会で優勝したとき、選手も泣いたし在日朝鮮人も泣いた。
抱き合って泣き、悲しみの涙をどっと流してサッカーをし、サッカーを見たのではないか。
日帝強制占領期間のサッカーは、朝鮮の誇りであり恨みを晴らすことだった。
韓国サッカーのDNAは、日本にだけは負けてはならないという朝鮮民衆の恨で作られたのだ。

なのでサッカーはナショナリズムと民族性をよくあらわしている。
ヨーロッパもアフリカも南米も、サッカーはナショナリズムを食べて育った。
解放後の韓日サッカーの最初の出会いは、1954年のスイスワールドカップ極東地域予選である。
日本人は絶対に韓国領土に入れることはできないというイ・スンマン政府の方針により、代表チームはホームアンドアウェイの2試合をすべて日本で行った。

出国前、イ・スンマン大統領に会ったイ・ユヒョン監督は「日本に勝てなければ、選手団全員が玄界灘に身を投げる」という言葉を残した。
韓日戦が何なのかをあらわす克明な一言だった。
54年のスイスワールドカップから56年のメルボルンオリンピック、62年のチリワールドカップまで。
65年の韓日国交正常化以前も韓国と日本のサッカーはぶつかった。
どうしようもない運命ではないか。
地理的な隣接性は、地域予選で両国を避けようにも避けられない運命のライバルにした。

98年のフランスワールドカップ。
韓国と日本はどちらもアジアを突破しようともがいていたときだった。
最終予選のホーム試合が行われた蚕室総合運動場には、"Let’s go to France, together"というプラカードがあらわれた。
韓国と日本は互いが互いに勝たなければならない相手だったが、同じ道を歩んでいる同僚だったのだ。
ヨーロッパサッカーに対するコンプレックス。
ワールドカップへの熱望。
アジアレベルを克服するという宿願。
互いが互いを理解するしかなかった。
"World Cup Fever"、同病相憐むの立場だったのだ。

2002年のワールドカップ共催。
ワールドカップまで共催した運命のライバルは、終わることなく争う。
オリンピックで、ワールドカップで、ACLで終わりなくぶつかる。
ときには"歴史を忘れた民族に未来はない"という民族感情まで噴出する。
サッカーではない他のどのスポーツで、韓日間の政治や歴史の入ったプラカードが登場するだろうか。
だからサッカーはサッカーそれ以上なのだ。
韓日戦が私たちを胸を躍らせる理由である。


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