[人サイド] プロ12年目のクァク・ヒジュ「やっと大人になった」
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※一部要約

手首にクラブエンブレムのタトゥーを刻んだDFクァク・ヒジュは、現役選手で水原創立20周年のレジェンドに選ばれた唯一の選手だ。
"クァク隊長"というニックネームで呼ばれ、チームの闘魂を担っていたDFだった。
2003年に水原に入団して2013年まで計11シーズンの間、水原だけのために献身したクァク・ヒジュは、2014年にサッカー人生の黄昏期を迎えて新たな経験のために海外の舞台へ去った。

結果的にクァク・ヒジュは日本とカタールの舞台で席を占めることができなかった。
2015年にプロ人生の有終の美を飾るために帰ってきたのは、故郷のようなチーム水原だった。
今シーズン10試合に出場したクァク・ヒジュは、気持ちの良い復帰ゴールまで放って健在を誇示した。

プレイングコートとして1年契約を結んだクァク・ヒジュは、競技場の中よりも外でより大きな影響を及ぼした。
シーズン序盤に守備不安の指摘を受けた水原が、スプリットラウンドに入る前まで優勝の可能性を残していた過程には、選手団の精神的求心点になったクァク・ヒジュの存在があった。


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Q.プロ生活をしていて水原という一つのチームだけにいて、海外に出て行った。大変な点が多かっただろう。

まず家族と一緒にいられないのが最も大変だった。
新しい環境に適応する部分で、考えていたより計画的にいかなかったので困難があった。
だがそのような困難よりも、私は多くの経験ができた。
今でももし当時のような状況が来れば、当然海外の舞台に出てみると考えるだろう。


Q.具体的に海外の舞台で経験したかったのはどの部分か?

実際は、私は本来の選手より教育者としての欲がもっと大きかった。
2007年に指導者資格証を取得した当時、講壇に上がって話したことをまだ思い出す。
私が若い頃は、かなり殴られてサッカーをする環境にあった。
後輩や子供たちにはそんな環境にしないという考えを持っている。
スポーツ自体が苦しいこともあるが、楽しい方向へ変えられるという良い考えを持っていて、そのようなシステムについて経験をしたかった。
ヨーロッパも良いが、アジアの日本のような場合、私たちと体型も似ていて隣国だ。
海外の良い別のプログラムをたくさん吸収している場所だ。
サッカーをしながら学べる条件で日本を選んだ。


Q.日本では出場機会がなかった。リーグカップで2回だけプレーした。何か問題があったのか?

シーズンが始まる前、3ヶ月間体を作ることができなかった。
先に別のチームへの移籍が決まるという話を聞いていて、そのチームで運動を本格的に始めるつもりだった。
だが状況が色々とこんがらがって遅滞した。
冬季練習をしていれば体が早くできていたはずなのに、練習の開始が遅くなって体のバランスや生活習慣などが崩れた。
なので再び試合でプレーできる体力の状態を作るのに時間が長くかかった。


Q.FC東京では韓国選手という点でよそ者扱いされてるわけではなかったか?

同等の待遇を受けた。
当時の監督にかなり学んだし、監督の選択は正しいと思った。
私が準備できていれば、明らかに監督は私を呼んでいただろう。
私が見ても準備ができてなかったので、プレーできなかったのだ。
準備をしていたが、その過程がちょっと遅かった。
当時、私のポジションには日本選手が3人いた。
日本代表選手の森重真人がそのうちの1人だった。
また、1人はユース出身で2部リーグのチームにレンタルで行っていた選手だった。
その新人選手を見て悟った。
守備は上手くすることも上手だが、気持ちが切迫していなければならない。
自分の役割に渾身を尽くしている選手だった。
私が主戦競争で勝つためには、その選手より空腹でなければならなかった。
実際にプロ最後の道を歩むという考えで来てみると、その部分で簡単じゃなかった。
練習に邁進したが、機会は多く来ることはなかった。


Q.日本Jリーグで望んでいた経験をしたのか?

応用について知ることになった。
基本の枠組みの中で、私たちの環境に合うようにどう応用しなければならないかについて、考えるようになった時間だった。
ただし残念なのは、日本も自分たちのプログラムの中で、メッシのような選手を育てる結果をまだ出せてないことだ。
ベルギーはそのような部分で、明らかに成果がある。
日本もそのような経験は不足している。
日本サッカーはステップを重要視している。
GKや守備・攻撃のいずれも、ステップに合わせることを中心に準備する。
基本技はプロに来たときからすでに全員良くて、別個でさらにする必要がない。
そのため、つまらないミスがない。





Q.1シーズンを満たすことなくカタールのアル・ワクラに移った。

妻が2人目を妊娠した。
体が良くなくて、混乱していた。
両家の両親も見てあげるのが難しい状況だった。
スポーツよりは家族が優先という考えだった。
なのでチームに了承を求め、休暇を兼ねて韓国に入った。
そのとき私のポジションに外国DFも連れてきたし、私の体の状態も落ちていた。
私が再び行ってするのも難しく、チームに被害を与えると思ったので契約を解除することになった。
その年はそのまま過ごそうと考えたりもしたが、助けようとしてくれる方々が多くてカタールへ行くことになった。


Q.カタールサッカーはどうだったか?

カタールは過程より結果を重視する。
私たちのチームは弱いチームだったし、選手陣や施設などがかなり不十分だった。
私は監督が望んだ獲得だったのだが、4~5試合勝てなかったら、監督はもちろんスタッフ全体が変わった。
別の監督が来てモロッコのCBを連れてきた。
監督が変わる前までは試合でずっとプレーしていたが、1試合も勝てなかった。
そのときムンタリもカタールにいたのだが、守備をするのに忙しかった。
中東は圧迫そのものがない。
韓国選手は出て行って圧迫をかけようとするが、1人ではできない。
みんなで同じく圧迫をするという概念がない。
自然とゾーンディフェンスに変わる形だ。
ずっとやられていると、誰彼なくすべての選手が脅威だった。


Q.別の見方をすれば、プロ選手のキャリアを失った1年になったのではないか?

大変だったが経験になった。
逞しくなったし、やっと大人になったという感じもする。
このような経験がチームに戻ると土台になった。
小さなことや些細なことに感動することになる。
当たり前のようにあるものなどに対する感動だ。
2013年はそんな感動が減っていたが、出て行ってみるとそのような感動が再び美しく席を占め、新しい花を咲かせているようだ。
日本とカタールの1年間で出場した試合では一度も勝てなかった。
そんな中で、水原に戻って先発でプレーした初めての試合で勝った。
(注/クァク・ヒジュは6月17日の済州遠征試合で今シーズン初めての先発出場し、後半36分に得点して4-3の勝利の決勝ゴールを決めた)





Q.引退の時点を悩む時期だろう。

今はまだ計画がない。
何も考えてない。
来年どうするか私もよく分からない。
まずは今年の残り3試合、その試合を最後だと思っている。
その3試合を目標に定め、残っているものをすべて投じるという考えで、自分自身に後悔しないよう追い詰めなければならない。
ベルギーU-17代表チームの監督が自身を教育者だと言っていたが、私もその考えに共感する。
そうやって生きれば、どこに行っても幸せだろう。
プロチームでなくても、水原市で奉仕活動をするという気持ちを持ってすれば、幸せにサッカー界で生きられるという気がする。
ただ、まだ子供が小さくて、父親がサッカー選手だったことを覚えていられるときまでプレーしたいという考えはある。
そういう部分は少し惜しい。


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