[スポータルxエイペックス] スポーツで一つになる話-JリーグとKリーグの中心に立つ 1編
スポータルコリア




※一部要約

「サッカーは世界共通の言語である」という言葉はサッカー人の間では有名だ。
国連加盟国よりFIFA加盟国の方が多いことがそれを傍証している。
互いに言葉が通じなくてもサッカーボール一つさえあれば、身振りや足で対話することができる。

近い国日本の場合はどうだろう?
我が国とは歴史的に微妙な関係にあり、ライバル関係を維持している。
果たして実際にプレーしている選手や応援しているファンは互いをどう思っているのか?
2002年ワールドカップの韓日共同開催以降、光復70周年を迎えた今日の韓日サッカー関係はどれだけ発展したのか、互いに当たってみる時間を用意した。


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異邦人は故国を離れ、他国から来た人々を総称する言葉である。
サッカーで言う"外国人選手"がそれに該当する。
外国人選手は優れたサッカーの実力でチームを導くことが多い。
その中でも優先視されなければならないのは、国の文化に適応することだ。
JリーグはKリーグに比べて年俸が高い方なので、多くの国内スター選手がJリーグを通り過ぎた。
大韓民国サッカーの英雄パク・チソンも"京都パープルサンガFC"でプロデビューし、その後着実に韓国選手が活躍し、現在18人の選手がJリーグでプレーしている。

Kリーグでは日本選手をあまり見ることができなかったが、ごついサッカースタイルと合わないことや低い年俸などが理由にあった。
だが最近FCソウルが高萩洋次郎をアジアクォーターで獲得し、韓日サッカーの交流を続けている。
"異邦人"たちは移籍当初、互いの国で適応するのが難しかったと口を揃えて言った。
だが共通の結果の後では、肯定的な認識を持つようになったと語った。


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高原直泰はJリーグのジュビロ磐田を含め、ドイツのハンブルクやフランクフルトなどを経たベテランストライカーである。
現在はJ3リーグのSC相模原でプレーしていて、日本代表として57試合で23ゴールを決めて韓国のイ・ドングと肩を並べる選手として馴染みがある。
2009年の浦和レッズ所属当時にフィンケ監督とスタイルが合わずに不和を起こし、翌年2010年に水原三星ブルーウィングスに6ヶ月のレンタルをされて12試合で4ゴールを決めて活躍した。

6ヶ月という短い期間で高原が水原ファンにもたらしたインパクトは大きかった。
その理由は2010年8月29日にあったFCソウルとのライバル戦のスーパーマッチにあった。
高原は後半39分にデビューゴールを記録して45分に追加ゴールを記録し、2対2の試合を4対2にひっくり返して試合のMVPを占めた。
この試合について、まだファンの間では歴代級のスーパーマッチと呼ばれるほど、その影響力はすごかった。
水原ファンは高原に"青い侍"のニックネームをつけ、格別の愛情を送った。

高原もあるインタビューで「多くのリーグを歩きまわった。水原に来たのは本当に幸せだと思う。水原のチーム支援やクラブ運命(※運営の間違い?)、ファンの忠誠度や情熱は本当にすごいと思う。自分を犠牲にできる選手が多い」と韓国について持っている良いイメージを表現した。

また、韓国の若い選手がJリーグに去る姿を見て「Jリーグに行くといっても、若い選手は技術的に多くのことを習得するのは難しい。技術よりは経験や孤独を克服する方法を学べるはずだ。本当に簡単ではない挑戦だ。自分の夢と将来を見据えず、年俸や目の前のことだけを見て他のリーグに行くのは反対する」と心からの助言をする姿で、韓国への愛情を確認することができた。


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オ・ジェソクはU-17、U-20代表チームを経て2010広州アジア大会で代表チームの席を確固なものとした。
その後2012ロンドンオリンピックでは負傷したキム・チャンスに代わって主戦として出場し、銅メダル獲得に大きく貢献した。
Kリーグでは高原直泰と水原で同じ釜の飯を食べてプレーした。
2011年に江原へ移籍し、2012年12月16日にガンバ大阪に完全移籍した。

オ・ジェソクは過去のインタビューで、日本を破ってオリンピック銅メダルをとったので、自分を"意気揚々だった"と表現した。
慢心のせいだったのか?
彼は移籍してすぐ、冬季練習でアキレス腱を負傷して2ヶ月半休んだ。
成功街道を走ってきた選手が適応に失敗し、韓国に戻るつもりだという話を繰り返しした。
そんな中で自体の深刻性を感じたオ・ジェソクの両親が、「お前の次も韓国選手が来るかもしれないのに、その選手に被害が及んではいけない。韓国人として良いイメージを植え付けろ」と言い、オ・ジェソクは変わった。

2013年に5試合プレーしたオ・ジェソクは、2014年に40試合プレーしてガンバ大阪の主軸となった。
後半期の30試合で24勝をおさめて三冠の偉業を達成した。
オ・ジェソクが活躍した背景には、ある日本選手の助けがあった。
オ・ジェソクは最も忘れられない選手に、日本代表として有名だった加地亮を挙げた。

あるインタビューでオ・ジェソクは「加地亮は同じポジションのライバルであるにもかかわらず、私が厳しく孤独な時期のたびに世話をし、両親まで自分が運営するレストランに招いた」と語った。
また、加地亮の送別会で一緒に写真を撮ろうと先に提案し、「もう私の席はお前のものだ」と言ったという。
その言葉でオ・ジェソクは、その日を忘れず切歯腐心して三冠の偉業を達成した。

このように、"異邦人"にとって他国での孤独は避けられないことだった。
だが孤独を克服する一番の貢献者は人だった。
もちろん最初は反韓、反日の感情を持っている人々も存在したし、そのせいでより一層苦労したりもしたが、体験してみると結局彼らも同じ人間だった。
サッカーでファンと感情を共有したりもしたし、選手と親しくなったりもした。
サッカーという枠組みでその国の人々を理解できるようになった。
遠くて近い国、日本と韓国の互いに対する理解もそのような次元で成立すれば、今よりも良い関係に発展できるのではないだろうか?



続き:韓国メディア「スポーツで一つになる話、韓日サッカーファンの互いのイメージや将来について」

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