[ソ・ホジョンのキックオフ] "キャプテン"チョン・ウヨンと"チャンピオン"オ・ジェソク、Jリーグの生き方
ソ・ホジョンコラム




※一部要約

5月のある日、大阪市内で会った2人の青年はサッカーの前に円安現象を心配していた。
オ・ジェソクが口を開いた。
「円安のために困った。昨日は900ウォンになったよ」
日本に長く滞在しているチョン・ウヨンがノウハウを教えた。
「なぜドルで契約しなかったんだ?そうしてこそ損をしない」
ガンバ大阪はまだ韓国選手とドルで給与を支給する契約を結んだことがなくて不可能だというオ・ジェソクに、チョン・ウヨンは「日本に投資でもしろ。でなければずっと縁を保有していろ。いつか上がるんじゃないのか?」とからかう。
オ・ジェソクは「2020年の東京オリンピックまで待たないと」と相槌を打った。

オ・ジェソクとチョン・ウヨン。
満25歳の両選手は日本プロサッカーJリーグでプレーしているサッカー選手だ。
慶煕大08年度入学の同期である2人は、2012年のロンドンオリンピックにも一緒に出場して韓国サッカー史上初のメダル獲得に力を加えた。
チョン・ウヨンは慶煕大在学中だった2011年に京都サンガFCに入団し、プロ選手生活をJリーグから始めた。
その後ジュビロ磐田でプレーし、2014年からはヴィッセル神戸に移籍して1部リーグでプレーしているところだ。
Kリーグでプロ生活を始めたオ・ジェソクは2013年にガンバ大阪に移籍し、2人の友人は日本でも互いを頼りに過ごすことになった。
チョン・ウヨンのいる神戸市と、オ・ジェソクのいる吹田市は1時間もかからない距離である。
2人は[キックオフ]とのインタビューのため、大阪の中心地である道頓堀まで出てきてくれた。

チョン・ウヨンは2015年から所属チームの主将を引き受けている。
柏レイソルのホン・ミョンボ以降で初めて韓国人が主将を引き受けた。
外国人全体でもシーズンフルタイムで主将を引き受けるのは、ホン・ミョンボ以降15年ぶりである。
昨シーズンを基点に、Jリーグでも実力を認められたトップレベルのMFに上がってこそのチームの中心だ。
オ・ジェソクは初めて日本に渡った2013年に負傷と不振が重なり、5試合しか出場できない難しい時期を経験した。
だが昨シーズンに主戦を奪い、シーズン37試合に出場してガンバが三冠を占める主役となった。
Jリーグで印象的なキャリアを記しつつある両選手は、どのようにして競争に勝ち残って今の席に上がったのだろう?
直接話を聞いてみた。


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Q.両選手はどのようにJリーグへ来ることになったのですか?あいにく2人とも2部リーグから始めましたね。

ウヨン:3学年を終えてから来ました。率直に言えば私はドラフトを避けて来ました。行きたいKリーグチームはあったが、自分で選べないというのが残念でした。そんな中、東京で開かれたデンソーカップに参加しました。そのとき上手くやって最優秀選手賞を受け、その大会に来ていたJリーグのスカウトの目につき、京都が最も積極的に私を望みました。京都はそのとき1部にいて降格するかもしれないという時期だったが、それとは関係なく行くことを決めました。むしろ落ちたほうが私の立場では良いチャンスになると思いました。1部リーグの別のチームも関心があったが、適応する過程を経なければならないなら無条件にプレーできるところが良いでしょう。

ジェソク:私も移籍を決めた当時、ガンバが2部リーグに落ちる危機でした。落ちたときの状況への計画もありました。ウヨンもそうだがJ2は1シーズンで42試合するので、チャンスは多く来ると思いました。結局降格したが、ガンバは昇格する可能性が最も高いチームなので、率直に心配することなく来ました。ところが大阪空港を通過してすぐ悪夢が始まりました。膨らんだ夢を抱えてきたが、現実は厳しかった。ロンドンオリンピックで日本に勝ってメダルを取ったので、甘く見てました。さらにガンバという名門チームから高待遇も受けていたし。意気揚々な時期でした。ところが初シーズンから冬季練習をまともに消化できませんでした。アキレス腱の負傷で2ヶ月休みました。復帰しても練習試合にだけ出てリーグ戦のエントリーに入れず、私も「君たちが私を使わない?」と居直り式になりました。もともとあまり怪我をしないのに、不思議と続けて怪我をしました。それはおそらく苦労をしてちゃんとしろという髪の啓示だったようです。不満をすごく持って生活してました。監督が見れば、練習態度が不真面目だったから完全に排除していたのに。通訳の兄さんにも「私は韓国に行くつもりです」と言うほど気が抜けていました。チームが試合をすれば2軍は競技場に来て試合を見るでしょう。そのときもイヤホンを持って行って、試合を見ずに韓国の芸能プログラムを見ていたほどでした。そうすると、久しぶりに試合に出ても、準備ができてない状態で競技力が出ますか?サッカーをして歴代で3本の指に入るほど最悪の試合をしました。そのとき選手が話していることを聞きました。あいつが交代投入されて負けたと。韓国から持ってきた大きな荷物の3つのうち2つを送り返し、それを見た両親が自体の深刻さを感じて大阪に来ました。そのとき両親は「これは駄目だろう。両親として子供の立場は理解するべきだが、これは選手としてする行動ではない。残りのシーズンでプレーできずに去っても、韓国人として良いイメージを植え付けろ。お前の次も韓国選手が来るかもしれないのに、その選手に被害が及んではいけない」と言いました。その言葉を聞いてちゃんとしました。翌日から生活パターンを変えました。クラブハウスに一番遅く来て一番最初に帰る選手だったが、二番目に来て最も遅く帰りました。あぁ、一番は加地亮選手だったが、どうしてもその選手よりははやく出てこれなかったんです。以前はコーチも私に話しかけるのを嫌がって避けていたが、笑い始めました。

ウヨン:私はジュビロに行ってジェソクのように苦労しました。京都の行くとき、1年で1部に昇格できなければレンタルでもオファーが来ればチームで積極的に検討して送るという条項が契約にありました。結局1年目で昇格できなかったが、そのときは条項を主張しませんでした。当時はオリンピック出場がかかってました。冬季練習期間にキングスカップに行き、予選でサウジアラビアやオマーンに行ってチーム練習をまともにできない状況でした。チームを移すのは負担が大きく、京都に1年さらにいました。当時の大木武監督様がしっかり見てくれて試合にも着実に出られたので、代替選抜だったがオリンピックにも行くことになりました。ところがそのシーズンもプレーオフから落ちて昇格に失敗しました。それでジュビロ磐田からレンタルのオファーが来て1部リーグに行くことになりました。ジュビロの場合は以前活躍した韓国選手のため、韓国人に対するイメージが良かった。(チョ・)ビョングク兄さんと(ペク・)ソンドンもいるから適応も容易そうで、行って6ヶ月間はずっと試合に出てました。だがチームの成績がずっと降格圏にいて、結局監督が交代しました。新たに来たのが関塚隆監督でした。ロンドンオリンピックのときの日本代表チームを率いていた方でしょう。序盤は大丈夫でした。夏の練習キャンプでも良かったし、就任後3試合はプレーしました。ところがその後から完全にアウトになりました。オリンピックのことはまったく関係ないと思うが、私の立場では試練が始まりました。渡したとソンドンはもちろん、ビョングク兄さんも韓国人傭兵3人がすべてベンチに座る時間が多くなりました。1人ではなく3人なので一緒に6ヶ月間持ちこたえました。結局ジュビロはまた降格しました。私は京都所属なのでひとまず復帰はしたが、結局1部リーグのヴィッセル神戸へ完全移籍することになりました。そのときは神戸の安達亮監督が直接私を望みました。その移籍が私にとっては重要な選択になりました。


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Q.サッカーではどうだったんですか?厳然と外国人選手なのでチームの期待値は高くないですか?韓国人選手は違うのですか?

ジェソク:(チョン・ウヨンを見て)最初にパスは来た?日本特有の文化のようです。信頼しない人、初めて見る人には絶対パスを出しません。韓国は外国人選手にボールをかなり出しますね。適応する過程にあっても、ミスしようがまず出しました。外国人選手というのは、それだけ能力があって獲得されたわけだから。ところがここではパスが来ません。どれだけ無視を酷くされたかというと、試合前日に20人がミニゲームをしたのだが、2人がジャンケンでドラフトを選ぶようにチームを作りました。ところがみんな選んで、GK2人とフィールドプレーヤーは私だけが残ったんです。最後に残ったのが私で、1人足らなくて入ってきたのがコーチでした。その次にジャンケンで負けたほうが私を見て顔をしかめました。勝ったほうが結局コーチにチョッキを渡しました。恥ずかしくて腕が震えました。あー、これは私が思っていたのとおは完全に違う状況だ。本当にやりきれないと思いました。

ウヨン:私は大学からすぐ来たのでさらに無視されました。初めは本当にすごくやられました。初めはじっとしてました。そうすればますます酷くなります。1人に何も言わなければ周囲もみんな同じく無視します。"チョン・ウヨン、あいつは何を言っても構わない奴だ"となります。このままでは駄目だと戦い始めました。私も聞き取れない韓国語で罵り競り合いも強くして、練習中に結局喧嘩で中断したこともあります。当時の私の当面の問題は、チームの中で生き残らなければならないと。一日一日の練習が戦争でした。


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Q.信頼を受けなければボールが来ない?その問題はどうやって解決していったんですか?

ジェソク:まずは言語です。

ウヨン:お前はどうやって勉強したの?

ジェソク:日本に来る前に韓国で課外を10回受けてきた。

ウヨン:私もサッカーの実力ほど言語は重要だという話を聞いて、契約して合流する前に塾の授業を受けてきました。まず仲良くならなければならなかった。1年目は宿舎で生活しました。ところが誰かが助言しました。「若い連中は何の役にも立たない。チームの中心と親しくなれ」。その後は主将と仲良くなろうとしました。言葉もできないのにご飯を一緒に食べに行きました。自分の性格的に難しいことだったが、生き残ろうとしたことでした。当時の京都の主将だった中山博貴という人も気さくな性格ではなく近づくのが難しかったが、やっと親しくなってからは他の人たちの視線も変わりました。それで運動場で少し楽になってボールが来始めました。それで自信がつき始めました。

ジェソク:私には幸運が一つありました。チームの中心的選手がむしろ私を世話してくれた。日本代表としても有名だった加地亮で、私は死ぬまでその選手を忘れられません。よりによって私と同じポジションなのに、ライバルの私にすごく良くしてくれました。髪が長くて切りたいと思えば、加地が自分の運営しているヘアショップに連れて行ってくれました。レストランも運営していて、両親が来たら招待してくれました。家に1人でいたら、自分の家でやってるバーベキューパーティーに私を招きました。するとそこに来ている他の選手が「どうして試合に出られない奴がここに来るのか」という表情をします。私がデビューした日もすごく祝福してくれた。加地さんに聞いてみました。なぜ私に良くしてくれるのかと。ただイメージが良くてそうしてくれたようです。私が来た最初のシーズンが終わった後、加地さんがMLSに去ることになって選手団が送別会をしました。私は中心ではなく角にいたが、その友人は写真を撮るとき私を探しました。自分の側に来いと言いました。そして「もう私の席はお前のものだ」と声をかけてくれました。日本に来てからは涙は消えたが、終わってから家に帰って涙をたくさん流しました。今日を絶対に忘れてはならないと誓いました。

ウヨン:私の場合は監督運が良かった。京都1年目のときに監督様が新たに就任したのだが、スタイルがすごく合ってました。世界のどこへ行っても選手は監督の掌の上にあるが、海外に来て自分を信じてくれる監督様に会うことほど良いことはないでしょう。


Q.サッカーでも生活でも、文化的衝突はなかったんですか?

ウヨン:日本の人々は性格が私たちとは逆です。韓国は速いができないことはないじゃないですか。最初は怒ってがさつに振る舞っても、結局はするでしょう。ところが日本はのんびりしていて駄目なことは無条件に駄目です。笑顔で「絶対に駄目だ」と言います。本当に近いけど、完全に別の国でしょう。なぜ両国が仲良くないのかわかります(笑)

ジェソク:指導者のスタイルも違います。Kリーグは選手がなぜ自分をプレーさせないのか監督に何も言いません。面談をすることになれば鍵は指導者が握ってます。選手が損をしそうだが、代わりに答えを教えてくれます。「今の状態ではお前を使うことはできない。代わりにこうしてああすればお前を使う」と言います。厳しいがそれを突破すれば最終的にチャンスが来ます。日本は選手と指導者が気楽に話をします。選手側にもある程度力があるようです。ところが実際はそれで終わりです。監督は「お前を使うことは考えている。しっかり準備していろ」と言葉では言うが、実際には使いません。最初はモチベーションになるが落ちてきます。抜け出すことができません。

ウヨン:ジュビロ時代に関塚監督を二度訪ねました。私は基本的に守備的な選手なので、そういう方向でやりたいと言いました。そのとき関塚監督は「わかった、今日こういう話をして楽しかったしありがたい」と言ったが、その後戻ってくることはありませんでした。言葉の額面そのままです。「それじゃあ君は私がいる限りプレーできない」になるんです。初めは多く傷つきました。今は日本文化がそれなら、それを上手く利用しなければならないと考えてやってます。


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Q.Jリーグへ行く選手はまず韓国サッカーファンの非難を避けられません。ヨーロッパ進出はリーグを問わず挑戦だと褒奨される一方、Jリーグ進出は単に良い環境を探していく現実的安住と考えられてます。

ジェソン:うーん、J2にいるとき韓国選手とグラウンドで本当にたくさん会いました。各チームに1人以上はいます。ここに来る選手はみんな事情があるようでした。パスサッカーがしたくて来た人たち、韓国では実業の舞台でさえ受け入れられなかった人たち、本当にみんな理由が違ってました。人々は日本のインフラと環境、気楽なサッカーを探しに行ったというが、みんな理由が違います。私はドラフトを拒否すれば5年間Kリーグでプレーできなくなる条項を本当に早くなくしてほしかった(2016年の自由契約転換によって最近廃止、ただし5年以内に国内復帰の場合、A等級以下-基本給3600万ウォン~2400万ウォン-契約可能)。水原のチョ・ ソンジン選手は韓国のどのチームにもかからずにJ3まで行きました。結局日本に来たのは無駄な時間じゃないことを、ここで成長して韓国に戻って証明したじゃないですか。ここでチャンスを得て立ち上がってから韓国に戻りたかったが、結局残らなければならなかった選手もいました。

ウヨン:今(ファン・)ジンソン兄さんが京都に来ているが、試合でプレーできずにいます。ここも激しい競争をして生き残ってこそプレーすることができるところです。世界で気楽にサッカーのできるところはどこにもないと思います。他のリーグに進出してもそうだが、日本に来たら必然的に経験しなければならない過程があります。韓国選手が最もサッカーを気楽にできるところはまさに韓国でしょう。大学生でここに来て、降りかかった困難を乗り越えた20代序盤の経験が、今後のサッカー人生のすごい資産になるでしょう。

ジェソン:明らかにKリーグはアジアで最も優れたリーグです。しかし機会があれば一度は海外に出てサッカーをしてみろと勧めたいです。どこであっても見慣れない環境、彼らだけの文化の中でサッカーをしてみると、確実に人生で得るものがあります。選手として成功するのも重要だが、いつかは選手生活が終わり、その後の人生のために必要な経験が積もります。苦しんでいる選手、チャンスが来ないのにさらに負傷した選手。その悲しみを知れば、代表チームに落ちたのは何でもありません。最も底辺にいる人の心を推し量ることができれば、他のことは問題にならないんです。



続き:Jリーグの生き方:チョン・ウヨン「去年は監督が選手の不満を受け入れて崩れた」、オ・ジェソク「私たちは遠藤・今野が踏ん張ってくれる」

J Soccer Magazine(13) 2015年 07 月号 [雑誌]: サッカークリニック 別冊J Soccer Magazine(13) 2015年 07 月号 [雑誌]: サッカークリニック 別冊


ベースボールマガジン社 2015-06-16

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