[チョン・ジョンフンのビルドアップ] ザスパ草津のチェ・ジュンギ、彼が直面した日本サッカーと偏見
ヘラルド経済




※一部要約

青年の失業問題は日が進むに連れて深刻化している。
サッカー界も同じである。
ドラフト制度がなくなってからは失業率がさらに上がった。
プロの敷居の前に立った選手は、就職のためKリーグだけでなく様々な国に視野を広げている。

延世大を卒業したCBチェ・ジュンギもその中の一人。
彼は韓国を去って新たな挑戦に出る。
10日、J2リーグのザスパクサツ群馬はクラブのHPでチェ・ジュンギを獲得したと公式発表した。
チームに合流したのは2月だったが、学校側の移籍同意書発行が遅れたため発表が遅れた。

チェ・ジュンギは最初から海外に目を向けていたわけではなかった。
昨シーズン序盤にKリーグクラブからオファーが来たが、複雑な問題により決裂した。
なのでUリーグのキングオブキング戦が終わった直後に、エージェントを通して日本へ渡った。

だがスタートから多くの苦労を経験した。
初めて入ったクラブでは日本選手のよそ者扱いで葛藤を生んだ。
結局そこを去って新たなクラブを探すため歩き回った。
二つ目に足を踏み入れたクラブが、現在身を置いているJ2リーグのザスパクサツ群馬。
ザスパの雰囲気は前のクラブとは正反対だった。
ブラジル、韓国国籍のコーチがいたので外国人に対して好意的だった。
それとともに森下仁志監督が韓国人に対して良い感情を持っていた。

チェ・ジュンギは「監督様がよく自分の選手時代のことを話します。ホン・ミョンボ監督様についての記憶を出し、"韓国選手は闘魂、闘志が優れている"と肯定的な評価をしています」と語った。
ザスパはチェ・ジュンギが適応するには最適な環境だった。



50歳の三浦、31年目で終わりを知らない挑戦のアイコン
スポーツ朝鮮




※一部要約

1967年生まれの三浦知良は2017シーズンが始まった現在までプロ選手のユニフォームを着ている。
彼の現所属は日本J2の横浜FCである。
ポジションはFW。
1986年からクラブ生活をスタート、今年で31年続けている。

三浦は年齢的にプロサッカー選手の全盛期を越えて"還暦"まで経た。
だが今年1月に現所属チームの横浜FCと1年の再契約をして再び1シーズンプレーできるようになった。

三浦は今シーズンの開幕戦が行われた2月26日に50回目の誕生日を迎えた。
松本山雅とのホーム試合を終えた彼は、記者会見で取材陣が用意したバラの花束とケーキをプレゼントされた。
イタリアのサッカースター、アレッサンドロ・デル・ピエーロは自身のブログで三浦の誕生日とサッカーへの情熱に祝福のメッセージを残したりもした。
三浦は3月5日のVファーレン長崎戦でも先発出場、50歳7日でイングランド1部最高齢出場記録(50歳5日、スタンリー・マシューズ)まで飛び越えた。

三浦は去年まで10年を超えて1シーズンで5ゴール以上を上回れずにいる。
1シーズン3ゴールが最多だった。
負傷で引退の危機に追い込まれていた2014シーズンには2試合の出場で無得点を記録したりもした。
2016シーズンには20試合出場で2得点した。
だが三浦は若い後輩と相変わらずプロの舞台を走っている。
なので三浦はアジアサッカーを超えて世界が認める"挑戦"のアイコンとして通じている。

三浦が歩んできたサッカー人生は限りない挑戦の連続だった。
彼は日本を超えてアジアのサッカー選手が歩んでこなかった道を切り開いた。

高校時代の1982年に一人でブラジルサッカー留学に行った。
ブラジルでプロ選手になるためだった。
彼はサンパウロのアトレティコ・ジュベントス・クラブと幼少年契約した。
最初の成人契約は1986年にサントスとした。
その後パルメイラス、コリチーバを転々とした。
長期留学を終えて1990年に日本に戻った。



[人サイド] 15年目のキム・ジンギュが語る昇格、楽しみ、そして妻
フットボールリスト




※一部要約

あまり知られていないがキム・ジンギュはこの2年間で多くのことを経験した。
2016シーズンを前にFCソウルと別れたときは引退を考慮したりもした。
他チームから来た良いオファーも断ったほど心が弱っていた。
そのときキム・ジンギュを安心させた人物が妻のキム・ヒョヒさん(当時ガールフレンド)だった。
妻は「いくら貰ったとしても好きなことをするのが良いのではないか」とキム・ジンギュを再起させた。
パタヤ(タイ)とファジアーノ岡山(日本)で両極端の生活をしたキム・ジンギュは、2017シーズンを前に苦心の末に大田のユニフォームを着た。


─去年12月に結婚した。既婚者になってキャンプに来た。

そう。ワイフを家に置いてこなければならないと。それは本当にそうだった。子供を早く作らなければならないという気がした。どうしても一人より二人のほうが良いんじゃないだろうか?ワイフは孤独なことが多い。


─大田移籍は意外だった。岡山で順調に過ごしていたのではないか?

実際日本にまた行こうとしていた。だがイ・ヨンイク監督様が電話してきて"やってみよう"とおっしゃった。それで"はい"と言った。生きていて義理のようなことを守らないようにしていたが、約束を破ることはできなかった。韓国に戻ったら監督様と一緒にすることを約束した。韓国でも私を望むチームはあった。だが大田よりも後に来たオファーだった。(オファーしたチームが)クラシックだったとしても行くのは・・・。



"50歳"三浦、今年も現役・・・横浜FCと再契約
MKスポーツ




※一部要約

日本プロサッカー最高齢選手の三浦知良が50代にもかかわらず現役として活動する。

横浜FCは11日、公式HPで三浦との再契約を発表した。
1967年生まれの三浦は50歳になる今年もグラウンドを走る。

横浜FCは三浦を象徴する背番号11に合わせてこの日に便りを伝えた。




[オフィシャル] 三浦、50歳現役確定・・・横浜FCと再契約
スポータルコリア




※一部要約

三浦は去年、J2リーグ20試合に出場して2ゴールを記録した。
Jリーグ最高齢得点記録を自ら更新中の彼は、今シーズンもゴールを決めるため努力するという覚悟である。
彼は日本メディアとのインタビューで「先発出場してゴールを決める」と語ったりもした。






[インタビュー] イ・ボムヨンの日本1年、「失敗者で戻ったのではない」
フットボールリスト




※一部要約

2016シーズン、Kリーグを代表するGK3人(チョン・ソンリョン、キム・スンギュ、イ・ボムヨン)は並んで日本Jリーグの舞台に進出した。
すでにキム・ジンヒョンとク・ソンユンがそれぞれセレッソ大阪とコンサドーレ札幌でプレーしていた中、代表級GKがすべて日本に向かったのである。

彼らの中で2017シーズンに国内の舞台に戻った選手はイ・ボムヨンが唯一だ。
イ・ボムヨンがプレーしたアビスパ福岡は18チーム中最下位を記録して2部リーグに降格した。
江原FCに移籍して1年で日本の舞台を去ったイ・ボムヨンは、失敗者のように見えた。
5日、江陵のシーマークホテルで行われた江原FC始務式の現場で会ったイ・ボムヨンの表情は明るかった。

イ・ボムヨンは物足りなさで終わった1年の日本生活に意味がなくはなかったと言った。
なぜ帰ってくることになったのか、そしてどんなことを得てきたのか、スポットライトの中心にいる江原のナンバー1に選ばれたイ・ボムヨンの話を聞いてみよう。


─釜山とアビスパで連続して降格を経験した。降格したチームの共通点はあったのだろうか?

前半期までは雰囲気の戦いである程度は押されてなかった。一度崩れ始めると回復不可能なまで落ちた。釜山で2014年は降格の危機から一度生き残った。シーズンをしていると再起のチャンスが明らかに来る。その当時を考えると、崩れそうになった瞬間に底まで行ず生き返った。降格したシーズンは再起できるキッカケを掴めずに崩れた。アビスパは後半期の開始と同時に崩れた。古参選手と新人選手の雰囲気をどうやって作るのかが重要である。降格への不安、試合が上手くいかないときに雰囲気をちゃんと作ってこそ抜け出せる。再起する雰囲気が作られなかった。


─失点が最も多いチームだった。個人的な活躍はどうだったのか?

まず降格したチームのGKだったので。私にすごくボールが来る。他のどのチームよりも。Jリーグはシーズンが終わったら選手に関する統計が詳細に出て来る。私は昨シーズン、18チームのGKの中でファインプレー率が6位だった。まあ、失点率は17位。最下位から2番目。記録から見るとファインプレーもたくさんした。それだけボールが多く来たし、GKにとっては失点するしかない部分があった。ファインプレーをしたとき、FWが助けないと。


─アビスパは最小得点チームだった。34試合で26得点。

0-1でリードされているとき。あるいは1-1のとき。このときが重要だ。0-1の状況から0-2になると崩れる確率が高まる。このときFWが得点して追いつくか逆転するか。釜山でもそうだったが後ろでたくさん防いでも、攻撃がチャンスで得点できなければ再び相手の攻撃になる。防ぐには限界がある。60~70分まではよく持ち堪える。このとき1ゴール決めていればという物足りなさがあった。このときに得点していれば、雰囲気は我々のほうにやってくる。GKにとってはできるだけ失点せず、残りの部分はMFとFWの助けを受けなければならない。江原には素晴らしいFWが多い。私たちは十分高い目標を立てるだけのメンバーだ。



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