[パク・ムンソン] 変わり者・本田圭佑
パク・ムンソン コラム




※一部要約

本田圭佑。

国内サッカーファンにとって少し特異な感じの日本サッカー選手だ。

国内で日本サッカー選手はあまり好感ではない。
歴史的な認識に、地理的なライバル意識などの影響である。
以前の"柴崎事件"が大きな話題になったのもそのためだ。

ところが本田は少し違う。
好感まではなくても、はっきり非好感でもない。
一般的な日本選手とは違う本田の線の太いプレースタイルに、がっしりしたフィジカル、さっぱりとしたFKなどが及ぼすイメージのためだ。

日本でも本田は目立つ選手として有名である。
0トップからサイドアタッカー、2列目の攻撃的MFまですべてでき、日本選手最高の左足無回転FKの能力を持っている本田は、日本でも特別な選手として通じる。
日本選手として初めて3回のワールドカップ本戦で連続ゴールを決めたことと、連続アシストを記録したキャリアだけでも、本田は特別だ。

本田は選手の才能だけで目立っているのではない。
行く道の選択が独特だった。
日本名古屋で上手くプレーし、オランダの小さなクラブであるフェンロに発った。
フェンロが2部に降格しても残り、1シーズンですぐにチームを1部に復帰させた。
フェンロで再び半シーズンプレーし、ヨーロッパの様々なクラブとリーグのラブコールを受けたが、本田が選んだところはロシアのCSKAモスクワだった。
本田はロシア・プレミアリーグでプレーする初めての日本選手であったほど、本田の選択は異例的だった。



[人サイド] 代表主戦キム・スンギュが誤解について明かす
フットボールリスト




※一部要約

キム・スンギュは親しい代表の同僚イ・ヨンが来ているとして、インタビューを一日先送りした。
キム・スンギュが暮らしている神戸は静かな都市である。
30分の距離にある大阪とは違い、神戸は観光地ではない。
外国人の割合が高くて静かな神戸は、キム・スンギュの言葉通り「サッカー選手が暮らしやすいところ」だ。
最近、アンドレス・イニエスタが引っ越してきて外国人サッカー選手が1人増えた。

代表のキム・スンギュは少しずつ代表での立場を広げてきた。
だがそれほど注目されたことはなかった。
2回のワールドカップと1回のアジアカップで主戦の席を逃したためだろう。
キム・スンギュはプロ選手として12年間プレーしてかなり成長したと自負しているが、成長した姿を広く知らしめる機会を掴めなかった。

今のキム・スンギュの立場は変わっている。
キム・スンギュはパウロ・ベント監督が就任した後、Aマッチの4試合中2試合を担っている。
まだサンプルは少ないが、GKの中で出場数1位である。
GKからビルドアップを始めようとしているベント監督がキム・スンギュを重用しているというのは、"キム・スンギュは足元の技術が弱い"という認識がもしかしたら古くなっているのかもしれないという意味だ。
キム・スンギュもやはり誤解について釈明するのを拒否しなかった。
インタビューは1日、神戸市内のあるコーヒー専門店で行われた。


フットボールリスト:まだ4試合だけだが出場時間が長い方です。ベント監督が自身を好んでいると感じますか?

キム・スンギュ:出場時間は私が長いですが、初招集のときに(チョ・)ヒョヌが(※怪我で)外れたじゃないですか。最初からヒョヌがいたらどうなっていたのかわかりません。今は私の試合数が多いですが、次の招集のときもそうなのかはやってみないとわかりません。



田嶋日サッカー協会会長特別対談③「日本サッカー成長の秘訣、確固たる哲学のおかげ」
ジョイニュース24




※一部要約

日本サッカーは6月に行われた2018FIFAロシアワールドカップでコロンビア・セネガル・ベルギーなどの世界サッカー界で有名な名門チームと対決し、引けを取らない底力を見せた。
巨艦ベルギーを後半中盤まで2-0で激しく追い込んだ。
後半に高さを活用した攻撃で押し込んできたベルギーを制御できずに2-3で逆転負けしたが、世界サッカー界に残した印象は非常に大きかった。

このワールドカップまで残り僅かだった4月、日本は監督交代という強硬策を取ったところだった。
チームを指揮していたボスニア・ヘルツェゴビナ出身のハリルホジッチ監督を更迭し、JFA技術委員長を引き受けていた西野朗監督を選任した。
驚きの選択だった。
日本メディアでも意見が入り乱れた。
「遅いが仕方のない選択」と言う人もいたし、「監督職を退いてからだいぶ経った人」という憂慮をあらわすメディアもいた。
ともかく2ヶ月前での監督解任劇は、隣国の韓国にとっても衝撃的なニュースだった。

もちろん解任の名分はあった。
ハリルホジッチ監督とともにした日本の成績はあまりに良くなかった。
EAFF E-1カップでは韓国に1-4で大敗し、3月のウクライナ遠征では中島翔哉らの新顔を大挙抜擢して戦術的実験をし、勝利を手にすることができなかった。
香川真司や本田圭佑などのベテラン選手を外して雑音まで起こした。
日本選手が主に繰り広げてきたパスサッカーではなく、闘争的なサッカーを根付かせようとしたが、上手く行かなかった。
最終的にはこれらの複合的な理由で辞めた。

だが結果的にこの寸劇が日本サッカーを生かした。
西野監督指揮の下、日本選手は一つに堅く団結した。
特に、ハリルホジッチが残した遺産である闘争的なサッカーに、日本特有の精密なパスを結合させたサッカーで大きな利益を得た。
長友佑都と酒井宏樹が活発にサイドで動き、柴崎岳がパスコースにボールを分配した。。
乾貴士と大迫勇也が攻撃の一線で最高の役割を果たした。
予想できなかった好成績に、日本列島は熱くなった。



バレンシアのイ・ガンイン、"日系"ダビド・シルバを超えろ
MKスポーツ、カン・デホ記者




※一部要約

バレンシアのイ・ガンインが満17歳8ヶ月11日の年齢で1軍初の公式戦を行った。
クラブの"東洋系大先輩"ダビド・シルバのAチームデビューから4466日(12年2ヶ月22日)ぶりである。

バレンシアは31日、エブロとのスペイン国王カップ16強1次戦に2-1で勝った。
2次戦のホーム試合は12月6日午前2時に始まる。

バレンシアのエブロ戦は創立36387日(99年7ヶ月12日)目に行った試合だった。
イ・ガンインはクラブの100年近い歴史で1軍公式戦を行った、初めての純東洋人として記録された。

ダビド・シルバなど、バレンシアを経たサッカースターの中にはアジア血統がいないことはなかったが、国籍などすべての側面で論難のない名実ともに東洋人の1軍選手はイ・ガンインが初めてだ。

3回の国際サッカー選手協会(FIFPro)世界オールスター選定に輝く日系MFダビド・シルバは、バレンシアユースが輩出した最高のスターの1人である。

ダビド・シルバは14歳だった2000年、イ・ガンインは2011年に10歳の年齢でバレンシアユースになった。
シルバは2010年7月14日、実家チームに移籍金2875万ユーロ(371億6196万ウォン)を与えてEPLのマンシティに去った。

バレンシアは2006年8月9日、ザルツブルクとのUEFAチャンピオンズリーグ3次予選1次遠征試合(0-1負け)を通じて、ダビド・シルバに初めての1軍出場の機会を与えた。

ザルツブルク戦のとき、ダビド・シルバの年齢は満20歳7ヶ月2日だった。
バレンシアは2004-05シーズンにエイバル、2005-06シーズンにはセルタ・デ・ビーゴにシルバをレンタルで送り、経験を積ませた。

イ・ガンインが"バレンシアAチーム史上初の東洋人"に留まらず、"クラブ史上最高のアジア系スター"に成長するよう願う。
そのためにはダビド・シルバの地位と業績を超えなければならない。



冬が終わって吹く薫風…アイドルを彷彿とさせるほどのベント号人気
OSEN




※一部要約

冬が終わったのか。
サッカー界に暖かい薫風が吹いている。

2018インドネシア・ジャカルタ-パレンバンアジア大会で甦ったサッカー熱はウルグアイ戦でも続いた。
この日、ソウルワールドカップ競技場は6万の観客で満杯になった。

アジア大会以降、9月のコスタリカ戦とチリ戦に続いて3試合連続で有効座席売り切れだ。
16日のパナマ戦まで、4試合連続の売り切れを目前にしている。

特に観客の年齢層が代表の未来を明るくさせた。
ほとんどが10代の学生と20代序盤の若年層だった。
相対的に見つけにくかった女性ファンの比重が高まった。

公開オープントレーニングでも、増加したファンのサッカー人気を実感することができた。
午前10時30分に公開予定のオープントレーニングのため、9時からファンは列を作って待っていた。


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代表は1時間ほど練習をした後、ファンに近づいた。
待っていたファンは選手の名前を叫んでサインと写真撮影を要請した。
選手もやはりファンとの時間を楽しみ、誠実にファンサービスに臨んだ。

惜しい点もあった。
練習場全体を広く使うと、位置によっては選手が1人も来ないところもあった。
練習場の外角にいた女性ファンは、喉が張り裂けんばかりに名前を叫んだが、選手が来ずに泣きべそをかいたりもした。

長い冬が終わったかのように、微細ではあるが暖かい薫風がサッカー界に吹き始めた。
これから韓国サッカー界が久しぶりに戻ってきたこの暖かい風を続けられるか注目されている。


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